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明けましておめでとうございます。今年もこれを読んでいる今そこのあなたと、その家族の皆様にとって幸多き一年になることを祈念しております。

…ブログタイトルに憧れであるデイトナ(※16520)の名を冠して細々と続けているのだが、この後も細々と続けていこうと思う。

さて年初にあたり、僕の愛するビンテージ時計というものについて、あるいはこのブログを書いている意味について考えたことを整理したので、アップしておこう。


ビンテージ時計とは?
決まった定義はないが、個人的には30年くらい経った時計はビンテージ時計として捉えて良いのではないかと思っている。僕がビンテージ時計を好きな理由は、まず機械式であること、デザインが洗練されていること、そしてそう高くないこと、が理由である。


ビンテージ時計を得る
新品で売っているビンテージ時計など存在しないため、ビンテージ時計を得るには必然的に店舗あるいは誰かに譲ってもらう、あるいは売ってもらうことになる。ご存知の通り世の中にはヤフオクをはじめとしてメルカリやebay、さらにはChrono24などの時計専用の売買サイトがいくつもあり、その中から欲しい時計を発掘し、手に入れることになる。今日日オンラインで買うのがもはや当たり前で、当然ながら画像や文章、メールでは判別できない点は山ほどあり、そういった当たり外れへの期待もビンテージ時計購入の一つの楽しみといえる。

しかし、時計を得る上で、自分はなんのためにどのような時計を得たのか、考えたことがある人はいるであろうか?

ビンテージ時計のアイデンティティ
昔の有名な思考実験に、テセウスの船の逸話がある。

テセウスアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本のがあり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

つまり、ある船の一部分が朽ちて新たな木材と交換された時、それは元の船と同一と言えるのか、あるいは、オリジナルの船に実際に使われていた朽ちた木材を集めて同じような船を作った時に、それはオリジナルの船と言えるのだろうか、という問いかけである。

翻って、ビンテージ時計ではこの認識に共通の考え方がなく、全てコレクター個人の信じるところに拠っている

ある人は全てが元のオリジナルでないと納得しないし、ある人は部品が交換されていても、それが正規のメーカーによるものであれば構わないという人もいる。もっと緩いと、交換されたパーツが新たに別作されたものでも構わないという人もいるし、さらには文字盤自体が一度消され、第三者によって新たにプリントされ直したものでも構わないという人もいる。

時計の場合、絵画や宝石と違い中に機械が入っていてそれが実用できるものであるため、より一層話がややこしくなる。

繰り返すが、ビンテージ時計のアイデンティティをどこに置くかというのは、個人の考えによるもので、衆目の一致する共通見解というのは存在し得ない。

考え方のヒント
しかしこの問題については、考え方の一つとして、哲学者アリストテレスが四原因説という形で説明をしているものが参考になる。以下、ウィキペディアからコピペする。

ーアリストテレスの言う4種の原因とは即ち、
質料因、形相因、作用因(「始動因」や「起動因」とも)、目的因
の4つである。


時計で例えるならば質量因はステンレスや金、プラチナなどの材料、形相因は人が想像するその時計の本質であり、ロレックスで例えるならば王冠マークのついたピカピカした時計、というようなものである。

作用因は時計が存在することになった動作、すなわち時計の製造や修復のことを指し、最後の目的因とは時計の目的、たとえば正確な時間を刻むこと、あるいは資産的価値を生み出すこと、などが該当する。

中国で買うような明らかな偽物のロレックスの場合、形相因のみ満たせばそれで良いと考える者が買うのだろう。闇サイトなどで売られる、本物に限りなく近い偽物、いわゆるスーパーコピーなどの類は、作用因には拘らないが他の原因を求める者が買う。

逆の見方をすれば、四つの原因のそれぞれの完璧度をどの程度で捉えるかにもより、たとえば作用因に完璧性を求める人であれば、例えメーカー純正の部品によって壊れて部品が修理されたとしても認められないだろうし、質量因に完璧性を求め他に対してはそうでもないという場合、時計の部品が金や良質のステンレススチールでできてさえいれば、後付けの部品交換、修理には気を払わないであろう。

…少し長くなったが、ビンテージ時計の価値を何に置いているか、どこにアイデンティティを見出しているのかというのを自覚するのは大切なことで、お金の使い方や情報収集にかける時間など、限られた資源を時計という趣味に投入するにあたり、知っておいて損ではない事のように思われる。

そう思わせるに足る事例を以下にご紹介する。


時計愛好家による7千万円の大型訴訟
ニューヨークで、さるセレブ歌手のお抱え時計バイヤーが、"偽物のロレックスを売りつけた"として顧客である歌手により訴えられた事件があった。かなりの大型訴訟で、なんと650,000USDという規模であった。歌手は時計のコレクターとして有名で、特にビンテージロレックスの熱心なファンであったという。

ビンテージ時計好きなら、このニュースの背景をなんとなく理解できるだろう。
おそらくはこのバイヤーが仕入れ、売った時計の中に、一部のパーツが取り替えられていたり、あるいは新たに作り直されていたりしたものがあり、そのような時計をロレックスのオフィシャルメンテナンスに出した時、本物ではないという認定を受けたもの…という感じではなかろうか。

この事件は、とりもなおさずテセウスの船のパラドックスをなぞる好事例である。

バイヤーのロバート・マーロンはその筋では有名人であり、このニュースが出た当時から擁護的な記事が多かった。重要な顧客の1人であるこの歌手に悪意を持って時計を販売したとは考えにくい。歌手のジョン・メイヤーは時計に情熱的であったろうし、バイヤーのロバートはビジネスマンであった。
その点に、お互いに時計のアイデンティティに関する哲学の相違があったのであろう。

あなたはこの件について、顧客のメイヤーか、バイヤーのロバートか、どちら側により感情移入できるだろうか?

僕は、訴えられたバイヤーのロバートに同情を覚えた。
何故なら、古い高価なビンテージ時計については、百パーセントオリジナルの純正部品で出来ていることなど到底証明が不可能だからである。また、そのようなことは奇跡が起こるレベルでありえないからである。万一ありえたとしても、それを証明するのは悪魔の証明に近い。

…ましてやビンテージロレックスである。
想像に難く無いことではあるが、ビンテージロレックスの貴重モデルは本物より多くの偽物が出回っていると言われるほど、とても洗練された贋作ネットワークが構築されている、らしい。さらには、ロレックスは文字盤やベゼル、ケース、ブレスレットなど、どのような仕様のものがどれほど製造され、売られたかを公開する事は無いため、たとえ一部分であっても本物か、当時のものかなどの鑑定すら容易では無い。

しかし別の人は、あるいはあなたは、顧客の歌手、ジョン・メイヤーに、より同情するのかもしれない。時計のプロであるバイヤーが、高価なビンテージ時計の真贋を、たとえ時計の一部分に関しても怠るというのは許せないのかもしれない。高価な買い物である時計に、一部でも、極端に言えばネジ一本でも新たに作成されたパーツが使用されていたら、それをロレックスの秘匿された情報と照らし合わせて調べ上げ、顧客に全て通知する義務があると考えるのかもしれない。

これは考え方の違いであり、どちらが正しいというものではない。

…さてしかし、この訴訟について耳にした人は多いだろうが、果たしてどれだけの人が結末を知っているだろうか?


結末については、このような記事を見つけた。これ以外の内容の結末を書いた記事を見つけられず、似たような内容の記事はいくつか発見されたためおそらくは本当だと思われる。不思議と日本語の記事は見当たらず英語記事しかなかったのだが、どうかリンク先に飛んで自分の目で確認してみてほしい。事実は小説より奇なり、である。

まあ簡単に言うと、ジョン・メイヤーは、自らの訴えが誤っていたと認め、ロバート・マーロンは真にプロフェッショナルな時計のディーラーであり、一切の金銭のやり取り無く和解した。
なんと、これは原告と被告の共同声明である。

多くの時計ファンにとって好ましい結末であろう。


時計への愛
このブログは、時計を愛する男により書かれている。そして、多くの読者もそうであると信じる。

しかし、この世に全く同じ思考、全く同じ価値観の人間など存在しないように、時計に対する価値観や考え方は、僕と読者、あるいは読者と読者で様々であろう。
そこに相違はあって当たり前だし、それを憎しみや悲しみなどのマイナスの感情に転嫁させる事などあってはならない。もしそうなりそうならすぐにブラウザを閉じ、『いつかデイトナ欲しいよね』を二度と開くべきではない。これは僕のブログ以外に対しても同じだし、なんなら僕自身も似たようなことをすることがある。

ではなぜ、互いに相違がありつつも時計について記事を書き、読んでもらいたいと思うのか。僕は、

時計への愛は、"人類が時間という概念を自覚すること"への驚きと、それを道具という形で具現化させた"人類の叡智への畏敬"が根底にあるものと信じている。時計は、人間の生み出した、神にその発明を誇れるものの一つであるとさえ考えている。

読者の皆様と、ブログを通じてこの心が少しでも通じ合えるとすれば幸いである。

今年も何卒宜しくお願い申し上げます。