原爆と時計、安らかに
少し遅れてしまったのだが、8月6日は広島に原爆が投下され、人類史上初の核兵器攻撃により都市が壊滅した日であった。
多くの日本人はこの悲惨な出来事について当然の如く知っているであろうが、あるいはお忘れかもしれないので、こうしてエントリを書いて、戦争の悲惨さ、無意味さに改めて思いを馳せたいと考えた。
というのも恥ずかしながら、僕自身もこの日について忘れていたのであった。何気なくつぶやいたTweetに、『時計知りたがり』さんというTwitterユーザーが原爆ドームについての投稿をされていて、そこで被爆した時計を紹介するリンクを読み、思い出したものであった。
被爆した時計たち
考えてみれば当然なのだが、時計にハマってからなんでいままで思いつかなかったのか、自分でも不思議である。原爆で犠牲になったのは人の命だけではなく、あらゆる財産、記憶が含まれる。その中に、時計も当たり前に存在する。
原爆投下により壊れた時計が、広島平和記念資料館に展示されているらしい。これは僕も目にしたことがあるはずだが残念ながら記憶にはうっすらとしか残っていない。Googleによっていくつか画像を見ることができた。
この通り、これらの時計は原爆が落ちたと言われる8:15を指している。
原爆投下の正確な時刻について実は諸説あり、ホントは違うという声もあるようだが、判然としない所らしい。しかしまた、これらの時計の針が原爆の衝撃で止まったまま保存されていると信じるのも純粋に過ぎると思う。厳密に何分何秒に爆発したか、という詳細な記録は、米軍の記録を信じるより他にない。それによれば、15分から16分にかけて、この惨劇の幕が降ろされた、ということになるそうだ。
愛されなかった時計たち
こんなブログを読んでいるあなたは、まあ間違いなく時計愛好家であろう。SNSで他人の時計愛を覗いたり、あるいは自身のコレクションを披瀝したり、あるいは自分だけで眺めるのみであったり、めいめいの楽しみ方をされていると思う。
この日、広島で儚くも散った人たちも、同じように、友人の時計を見て目を輝かせたり、大事に身につけている懐中時計を毎日巻き上げたり、磨いたり、精度を気にしてOHを考えていたりしていたであろう。そんな彼らのささやかな楽しみは爆弾によりあっさりと吹き飛ばされ、また、悲しいかな、数え切れないくらいの時計が破壊され、溶かされ、破棄された。
写真に残る歪んだ表情の時計たちは、そんな無念を放ち続けているように見える。おそらく、まだ太田川の川底に、暗く冷たく埋もれたままの時計もあるだろう。春に咲き乱れる元安川の桜の木の下で、もう二度と時を刻まない運命を静かに過ごす時計もあるのだろう。
愛され得なかった時計たちの悲愴に思いを馳せる事もまた、共通の趣味を持つものたちなりの鎮魂の祈りと言えまいか。
時計を楽しむ人生、は、儚くも脆い
あの時代の広島市内に生きた人たちが毎日大事に磨き、手入れし、巻き上げ、手にとって誇らしく眺めている時計は、ひとたび戦禍に遭えばかくも脆く儚いものだった。ものはいつか壊れるのが定めだが、時計は審美性、精密性、そして正確性を備えるべく技術の粋をこらして作成される工芸品、美術品、実用品であり、なおさら脆いものだ。
あなたが自分のコレクションを愛で、他人と時計愛を語り合い、新たな時計を手に入れられるという当たり前に見える日常は、『戦争や飢餓のない社会で、秩序立てられ、あらゆる方向と信頼関係が自然成立していて、なおかつ、精密な時計機械が物理的に安定した状態で個々人で所有でき、その権利を行使するに足る財産を所有する』という、人類史から俯瞰すればまるで奇跡のような瞬間にだけ許された、まさに僥倖といって言い過ぎではないように思う。
我々は、僥倖の時代を生きている。
儚くも脆い時計愛をこれからも未来へと受け継げるよう、せめて時計を愛する人々は、国境や人種の区別なく、同じ思いを抱く仲間だと信じている。すなわち凄惨な記憶の繼承であり、平和の探求である。
原子爆弾により失われた多くの命、多くの無念に、心より冥福をお祈り申し上げる。
追記
さらに上記Twitterユーザーの時計知りたがり氏のTweetにて、広島の平和記念資料館の収蔵物が検索できる事を知った。時計で検索すると、多くの写真とともにその時計にまつわるエピソードを読むことができる。胸に迫る、心を抉るようなエピソードが続く。
a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/detail/168873
名川淳史さんの姉、敏子さんは、幟町の自宅に一人でいる時被爆。隣の幟町教会へ電話をかけに行って無事だった妹、節子さんや、出勤途中広島駅で被爆した父、義人さんが相次いで戻り、敏子さんを助けようとしましたが、倒壊した家屋に火の手が迫り、近寄ることができませんでした。日が暮れて焼け跡を訪れた義人さんは、敏子さんの白骨を発見。腕の下から見つかったこの時計は、1時を指して止まっています。
寄贈者のコメントより
「身体に火が着いて焼け出したのが1時ごろと推定される。実に感慨無量であった。」自らの体験記にそう書いていた父も、昭和29年に原爆症で亡くなりました。この時計は私が受け継いでいましたが、子ども達には身近でないため、資料館で大切に保存してもらいたいと考えました。
http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/detail/156436
父親の中村重雄さん(当時37歳)は、勤務先の中国憲兵隊司令部で被爆し死亡した。8月9日に、司令部の焼け跡で原形もとどめていない遺骨を発見し、その中にあったこの時計を手がかりに、父親の遺骨を確認した。