袖口番長でヨイではないか – 戦略的審美性、あるいは"あざとさ" と腕時計–
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時計をスーツに合わせるなり。

Wittnauer Electro-Chron
前に電池交換したばかりの元気溌剌電磁テンプ時計。黒いストラップを付けているので、スーツにつけても違和感がない。
素晴らしい。
つーか今この写真を見てて思ったのだが、シャツの袖口と時計のストラップ、隙間が空いてるとやはりかっこ悪い。かといって、詰めすぎても窮屈である。
漱石の智に働けば角が立つ、情に棹させば流されるといったおもむきである。

例えばこれなんかも少し隙間が空いている。が、これ以上詰めると時計が袖口に乗っかってしまい、チビッコ感が溢れ出てしまうのである。悩ましい。
これは以前電池交換したポールスミスのトノー型のファッションウォッチ。
そうか。
トノー型の極意は、滑らかに袖口にフィットすることであったのか…
ポールスミスの電池交換という作業は、僕にこのような感覚、というか、一種のひらめきを植え付けたのであった。
思えば"ジャケット➕シャツ"に最強に映えると言われるカルティエ・タンクも、ピシッとした縦線とその端が優しく丸められているのが、シャツの袖口の直線と曲線のイメージとピタリと重なる。
下の画像の右側を見て欲しい。
ファッションにも時計にも興味がないよ、という方でも、この組合せがいかに美しいかわかるのではなかろうか。
(左側は女性である。タンクの凄いところは、素肌に付けるだけでも雰囲気を放つところだ...)
この写真だけでは、この男性の身長も体型も、顔ももちろん声も性格も分からない。
でも、シャツにもジャケットにも、ある種あざとさをもって異様に映えて来るカルティエ・タンクにより、装着者の外見はおろか内面の印象さえもブーストしてくれる気がする。
さしずめこんなところだ。おしゃれ、清潔感、知的、紳士的、笑顔、善意、裕福、親しさ…。
左の女性の写真についても同じことだ。
適切な時計をうまく服に合わせる事で、これらの印象を他人に与えることができるというのなら、それを利用しない手は無いはずだ。
腕時計はそれ単体ではなく、かならず身につけて使うものである。故に、手首、そしてそこに隣接するシャツの袖口、ジャケットの袖口にとてつもない影響を与えるものでも、ある。
よし、
僕の持つ時計をシャツに、ひいてはその上のジャケットやセーターにどう合わせていくのが良いのか、もう少し真剣に考えてみよう。
時計道はまっこと奥が深いぜよ…
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